秋は「悲しみ」をテーマに
コラムを展開しています。
今日はその中でも
「大切なもの、人を失ったときの悲しみ」
について考えてみましょう。
形あるものは必ず朽ち、
生あるものには必ず死が訪れます。
私はアメリカのホスピスのターミナルケア-でしばらく活動していました。
そこで驚いたのは「死の教育」が幼い時から盛んにおこなわれていたことでした。
日本ではあまり耳慣れない
「死の教育」(death education)
決して暗い話ではなく、
「いかに人間らしく死 を迎えるか」、
と同時に「いかに最後まで人間らしく生きられるか」
を問う教育です。
「death education」=「life education」
つまり、死を考えることで生を考える。
残りの人生を有意義に過ごすための、
本当の意味で「生きる」ことを
考えるための教育です。
(2011, Deeken.A.)
死の教育のなかには
さまざまなアプローチがありますが、
今日は、何か大切なものや人を亡くした時、
心が直面する心理状態の研究を見ていきましょう。
これは、国境や時代を超えて、
どんな人でもたどる一連のステージです。
大切なものを失ったときにたどる6つのステージ
大事なものを亡くした時、わたしたちは①事実を否定しようとします。
今、目の前で起こっていることがうそのように感じてしまいます。
そして、②どうしてこんなことになってしまったの。医療的にもまだできることはなかっただろうか、もっといい薬、療法はなかったのだろうか?システムが悪い、と他の人や政策を攻撃したくなります(他者攻撃)
そのうち、③あの時、こうしていればもう少し生きていてくれたかも、私の不注意があったのでは、もっと何かできたかも、と自分を責めはじめ(自分攻撃)。さらに攻撃を続けると、鬱状態になり、そして命を絶つことさえあります。
そして④
どうして私を残して死んでしまったの!と死んだ人を責め始めます。(死者攻撃)。あたなは天国に行ってしまったけど、残された自分はとてもつらい、と。
この①~④段階は一般的には2,3年ほどぐるぐると続きます。
そして⑤ゆっくりと、もう無くして、亡くしてしまったものは
返ってこないことを悟り(現実受容)、
⑥少しずつ日常生活へと戻っていく(現実適応)
スムーズにこの段階を進むには、
しっかりと一つ一つの段階に向き合い、味わい、
たくさん泣くことが必要です。
でも現代の日本はそういう間もなく、
すぐに会社や学校に戻って
日常生活に引き戻されてしまいます。
充分に悲しむことなく、未消化のまま日常を過ごしていると
身体への症状、無力感・無気力、うつ状態が何年も続きます。
※カウンセリングでは儀式処方といって儀式を区切りをつけるため、専門家の助けを借りながら儀式をはじめからやり直し、少しずつ現実適応していくやり方があります。
死を乗りえる心の軌跡を見てみましょう。
上智大学の「死の哲学」授業で有名なアルフォンス・デーケン教授は何千もの人をみとる中、悲しみの12つの段階を提示しました。
1.精神的打撃と麻痺状態
2.否認(相手が亡くなったことを認めたくない)
3.パニック
4.怒りと不当感(なぜ、私だけがこんな不幸に見舞われたのか? 等)
5.敵意とうらみ(なぜ、夫は私を見捨てて自殺したのか? 等)
6.罪意識
7.空想形成・幻想
8.孤独感と抑うつ
9.精神的混乱とアパシー(無関心)
10.あきらめ―受容
11.新しい希望―ユーモアと笑いの再発見
12.立ち直りの段階―新しいアイデンティティの誕生
ここで特に大切なのは同じ体験をした人との「分かち合い」
だとデーケン教授は言います。
そしてドイツの諺を引用されていました。
「共に喜ぶのは2倍の喜び、共に悲しむのは半分の悲しみ」
カウンセリングでも、日常の親子や友人との交流でも、
大切なのは同情ではなく共感です。
同情は「かわいそうね」と一段上に立った立場からの評価、
共感は、横のつながりともいいます。
相手の主観に入っていって、
ともに喜びともに悲しむ」
関係をいいます。
日ごろから、
有意義に生きるために死を考える。
秋深まるなか、瞑想とともに考える時間もいいかもしれません。